もしも火星に飛ばされたら(4)コンパスの針が、どこも指さない【電磁気学編】
公開日
2026年9月12日
更新日
2026年9月12日
遠くの丘の向こうに、基地らしき構造物が見えます。日が落ちる前にたどり着こうと、あなたはポケットからコンパス(方位磁針)を取り出します。アウトドアの心得がある人なら、当然の行動です。ところが――針はふらふらと揺れるばかりで、どこも指しません。壊れたのではありません。この星では、コンパスという道具そのものが成立しないのです。
『もしも火星に飛ばされたら』は、ある日突然火星に飛ばされたあなたが、高校物理を頼りに生き延びるシリーズです。第4回は、目に見えない「磁場」の話。コンパスが効かない理由をたどっていくと、この星から空気が消えていった理由にまで行き着きます。
前回の内容はこちら:
この記事の主な内容
そもそも、地球のコンパスはなぜ北を指すのか
コンパスの針が北を指すのは、地球そのものが一個の巨大な磁石だからです。地球の内部では、溶けた鉄が対流していて、この流れが電流となり、星全体を包む磁場を作っています。発電機と同じ原理で星が磁場を作り続けている、と考えてください。
針はその磁場に引かれて向きをそろえる。つまりコンパスとは、「地球が磁石であること」に全面的に寄りかかった道具なのです。私たちは方位磁針を「自然に北を指すもの」と思っていますが、あれは地球という星のサービスでした。
火星には、地球のような磁場がない
火星には、この全体を包む磁場がありません。正確に言うと、昔はあったのです。古い地殻の岩石には磁気の痕跡がしっかり残っていて、かつての火星が磁場を持っていたことを物語っています。しかし火星は地球より小さく、内部が早く冷えてしまった。溶けた金属の対流が止まり、発電機が停止し、磁場は数十億年前に失われました。
残っているのは、岩石に焼き付いた「まだら模様」の弱い磁気だけ。場所によって向きも強さもバラバラなので、コンパスの針は迷子になります。火星で方角を知りたければ、太陽の位置と時刻から割り出すのが確実です。道具は要りません。これも物理です。

軌道上から撮影された若いクレーター。色は地質の違いを見るための強調カラーで、実際の色ではない。この一帯(シレーヌム・フォッサエ付近)は残留磁気が強く残る地域に近い。写真:NASA/JPL-Caltech/University of Arizona
磁場がないと、空気が剥がされる
「コンパスが使えない、不便だな」で済む話なら良かったのですが、磁場の喪失はもっと重い意味を持っています。
太陽からは、光だけでなく、電気を帯びた粒子の流れ(太陽風)が絶えず吹きつけています。地球では、磁場がこの粒子の流れを受け流すバリアとして働いています。電気を帯びた粒子は磁場の中でまっすぐ進めない、という電磁気の法則のおかげで、私たちの大気は守られているのです。
磁場を失った火星では、太陽風が大気に直接ぶつかり、大気を少しずつ宇宙空間へ剥ぎ取っていきました。NASAの探査機MAVEN(メイブン)は、今この瞬間も火星の大気が剥がされ続けている現場を観測しています。第2回で見た「地球の0.6%しかない大気」の犯人の一人は、磁場の喪失だったのです。
つまり地球の磁場は、コンパスを動かす便利機能ではなく、大気と生き物を守り続けてきた見えない盾だということ。冷蔵庫のドアに貼った磁石を見る目が、少し変わりませんか。

それでも火星に、オーロラは出る
磁場がないならオーロラもない、と思いきや、火星にはオーロラがあります。地球のオーロラは、太陽からの粒子が磁場に導かれて極地に降り注ぐ光のカーテンなので極地限定ですが、火星では磁場の導きがないぶん、粒子が大気に広く直接ぶつかり、星全体がぼんやり光るタイプのオーロラなどが観測されています。極地の特等席がない代わり、どこでも見られる全席自由のオーロラです。
今日の火星データ
全球磁場:なし(数十億年前に喪失)/地殻に残留磁気のまだら模様あり/太陽風による大気流出を探査機MAVENが観測中/オーロラ:全球に広がるタイプなどを確認
太陽を頼りに、基地へ
コンパスは諦めて、太陽の位置と時刻から方角を割り出したあなたは、日没ぎりぎりで基地にたどり着きました。地球では、スマホの地図が向きを知っているのも、渡り鳥が正しい方角へ飛べるのも、足元数千kmの下で回り続ける溶けた鉄のおかげ。当たり前の道具の裏に、星一個ぶんの仕組みがある――コンパスの効かない星に来て、初めて分かることです。
基地で迎えた数日後の朝。太陽の輪郭が、なんだかぼやけて見えます。空の色も、いつもより濁っている。嫌な予感がします。
次回、最終回〔原子核物理学編〕。砂嵐が、来ます。
<文/岡崎 凌>
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