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ノーベル賞を二つ受賞した世界で唯一の女性科学者-マリー・キュリーの好奇心が切り開いた放射性物理学-

公開日

2020年11月7日

更新日

2020年11月7日

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11/7は、マリー・キュリー(キュリー夫人)の誕生日です。言わずと知れたノーベル賞を受賞した研究者のひとりですね。

しかし、実はこの人ただのノーベル賞受賞者ではありません。人類で唯一、2つの異なる分野、「化学賞」「物理学賞」でダブル受賞を果たすという偉業を成し遂げているのです!各分野で最も優れた業績を挙げた人物が受賞するノーベル賞にあって、異なる分野で何度も受賞することはもはや神の所業といえます。

しかし、数々の輝かしい実績と裏腹に、彼女は非常に苦労の多い人物でもあります。今回は、そんなマリー・キュリーについてお話ししていきます。

なお、今年2020年のノーベル賞受賞者については、こちらで紹介していますのでよければ合わせてご覧ください。

アインシュタイン以来の天才!?ノーベル物理学賞受賞ロジャー・ペンローズが生み出した現代宇宙観

マリー・キュリーってどんな人?

マリー・キュリー(旧名:マリア・スクオドフスカ)は1867年にポーランドに、5人姉兄の末っ子として生まれました。ポーランドは当時ロシアの支配下にあり、国民運動に参加していた彼女の家族の生活は、決して裕福なものではありませんでした。

マリー・キュリー(1867 – 1934)

マリアは高校を最優秀の成績を修めて卒業しましたが、当時女性は大学へ行くことは許されませんでした。しかし愛国心の強かった彼女は、勉強してポーランドを独立させたいという思いがありました。

そこで、マリアは家庭教師をしてもらった給料で、兄妹への仕送りもしながら自分が将来パリに留学するための貯金をしました。当時24歳の1891年、貯金が溜まったマリアはフランスのパリへ向かいました。マリーという名は、フランスに移り住む際に名乗った名前です。

その後パリ大学を卒業し、そこで出会った同じく物理学者であるピエール・キュリーと物理学に対する考え方で意気投合して、結婚しました。ピエールもイオン結晶の誘電分極を始め、電磁気学の研究で成果を上げていた人物ですが、当時はまだ無名で、やはり裕福ではありませんでした。お金があったら結婚式よりも物理学の研究にお金をかける二人の性格を表しているエピソードとして、簡素な結婚式を区役所で済ませたあと、結婚祝いででもらった自転車に乗って新婚旅行に出かけた、というのは有名な話です。この二人が出会ってから、人類の未来を大きく左右する研究が始まります。

ピエール・キュリー(1859 – 1906)

どんな発見をした人物なのか?

19世紀後半、物理学研究において注目を集めていたのが、ウランと呼ばれる物質でした。1896年、アンリ・ベクレルは、何もしていないはずのウランから光を出ていることに気がついたのです。

アンリ・ベクレル(1852 – 1908)

このことを聞いたマリーは、「面白そう」、「新しい分野だから他の文献を読み漁る手間がなさそう」という理由で、この謎の光についての研究に乗り出します。

二人の研究に対してパリ大学から与えられたのは、ボロボロの物置小屋。限られた予算で研究を行う二人は、毎日鉱石を手作業で砕いては化学物質に浸し、高純度ウランを取り出す作業に没頭していました。ですが、後年マリーは当時を振り返って「研究に没頭できてとても幸福だった」と述べています。

ウラン鉱石。光を計測するためにはハンマーで叩き割って高純度のウランを取り出す必要がある。

そして、ポロニウムラジウムと呼ばれる新しい元素を発見します。放射性元素と呼ばれる、新たな元素が人類の手に渡った瞬間です。美しき女性研究者の偉業を、当時のメディアはこぞって「世紀の大発見」と称賛しました。原子核物理学の始まりです。

そして1903年、キュリー夫妻は放射能発見の業績により、アンリ・ベクレルと共に1度目のノーベル賞となるノーベル物理学賞を受賞します。
彼女が発見したものは、例えば現代では医療分野においてラジウム放射線による癌の治療などに応用されています。

しかし、その後マリーに悲劇が訪れます。1906年、最愛の夫ピエールが事故死。失意の底に突き落とされたマリーですが、科学への関心は失われず研究を続け、亡きピエールに変わってパリ大学の教授に就任します。パリ大学で女性が教授になったのは彼女が初であり、放射能の研究を続け1911年、2度目のノーベル賞であるノーベル化学賞の受賞を果たします。ちなみに、マリーの子供であるイレーヌ・キュリーも後年ノーベル賞を受賞し、親子二代でノーベル賞獲得という偉業を成し遂げることになるのですが、それはまた別のお話。

マリーは女性研究者としてもいくつもの「史上初」を成し遂げ、当時当然とされていた「女性は学問に向かない」という空気を打ち壊しました。生前だけでも各国の科学アカデミー名誉会員など、100を超える称号を得て、1934年、66歳の若さで亡くなりました。当時まだ危険性が認識されていなかった放射能を、実験の時に浴び続けていたことが死因とされていますが、その生涯を通して科学に没頭した彼女に、後悔はなかっただろうと思います

終わりに

貧しい家庭で自らの学費を稼ぎながら勉学に励み、大学では逆風をはねのけながら史上初の女性教授となり、最愛の夫の死をも乗り越えて人類初のノーベル賞ダブル受賞を成し遂げたマリー・キュリー。強い好奇心と探究心で、どこまでも科学を信奉した彼女の名言を一つ紹介して、締めくくりたいと思います。

I am among those who think that science has great beauty.

(私は、科学のことをとてつもなく美しいと思う一人です)

それではごきげんよう。

もっとマリー・キュリーについて知りたい方は、こちらの本が漫画で理解しやすいです。

学習まんが 世界の伝記 NEXT マリー・キュリー ノーベル賞を二度受賞した女性科学者 (学習漫画 世界の伝記)

<文/岡崎 凌>
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