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もしも火星に飛ばされたら(1)あなたは今日から、バスケ選手より跳べる【力学編】

公開日

2026年9月6日

更新日

2026年9月8日

目を開けると、あなたは赤い砂の平原に立っています。空は薄いバター色で、太陽はいつもより少し小さい。風の音も、車の音もしない。振り返っても、誰もいない。――どうやらここは、火星です。

なぜ飛ばされたのかは、ひとまず置いておきましょう(私にも分かりません)。それより先に、確かめなければいけないことが山ほどあります。幸い、あなたには荷物にならない装備がひとつだけあります。高校物理です。

『もしも火星に飛ばされたら』は、ある日突然火星に飛ばされたあなたが、高校物理を頼りに生き延びるシリーズです。第1回は、まず自分の体から確かめていきましょう。

火星のゲールクレーターから見たシャープ山(キュリオシティ撮影・未補正カラー)

本日からあなたが暮らす星。色は実際の見え方に近い未補正カラー。写真:NASA/JPL-Caltech/MSSS

まず落ち着いて、ジャンプしてみよう

火星の重力は、地球の約38%しかありません(重力加速度3.7m/s²)。つまりあなたの体は、いきなり3分の1近くまで「軽く」なっています。

地球で40cm跳べる人なら、火星では約1m跳べます。垂直跳び1mといえば、プロバスケ選手の中でもトップ級の跳躍です。つまりこの星では、あなたの脚は今日からNBA級。しかも滞空時間は約1.6倍で、あのバスケ選手を見て感じる「空中で一瞬止まって見える」ほどの跳躍力が標準装備になります。バスケのリングの高さは3m05cm。平均的な体格の大人なら、計算上は指がリングに届きます。私は地球ではネットにも届くかも怪しいですが、火星でなら人生初のダンクが狙えるわけです笑。

ついでに、体重60kgの人が体重計に乗れば表示は約23kg。投げた石は約2.6倍飛びます。

高いところから飛び降りても、落ちる速さはゆっくり。同じ2mの高さなら、地球では0.6秒で着地するところ、火星では1秒かけてふわりと降りられます。いいことずくめに聞こえますよね。ところが。


「軽い」のに「痛い」――重さと質量は別ものである

体重計の数字は23kgになりました。でも、あなたの体をつくっている物質の量――物理の言葉で質量――は、60kgのまま1グラムも減っていません。

ここが本日いちばん大事なところです。「重さ」は星が変われば変わるけれど、「質量」はどこへ行っても変わらない。そして、動いている物体の止めにくさ(慣性)を決めるのは、重さではなく質量のほうなのです。

だから火星では、妙なことが起きます。大きな岩を持ち上げるのは地球より断然ラク。なのに、走って壁にぶつかれば地球とまったく同じだけ痛い。勢いをつけて運んだ荷物は、地球とまったく同じ力で受け止めないと止まりません。軽々と持ち上がるくせに、止まらない。火星の引っ越し屋さんは大変だと思います。

月面を歩いたアポロの宇宙飛行士たちが、ぴょんぴょん跳ねる独特の歩き方をしていたのもこれが理由です。低重力の星では、地球の歩き方だと体が浮いてしまってうまく進めない。跳ねたほうが転ばないのです。あなたも火星では、早歩きよりスキップをおすすめします。

映画『オデッセイ』の冒頭は、物理的にはウソである(ごめんなさい)

火星サバイバルといえば映画『オデッセイ』が知られていますが、ここで一つだけ野暮なことを言わせてください。ネタバレは冒頭10分だけです。

主人公が火星に取り残される原因は、猛烈な砂嵐でした。アンテナが吹き飛び、人がなぎ倒される大迫力のシーンです。ところが実際の火星では、あの砂嵐は人を吹き飛ばせません

火星の大気の密度は、地球の約60分の1しかないからです。風の力は「速さ」だけでなく「空気の濃さ」で決まります。同じ風速でも、空気が薄ければ押す力は弱い。NASAの解説によれば、火星で最強クラスの砂嵐の風(時速100km前後)を受けても、体感は地球のそよ風程度。アンテナをなぎ倒すどころか、人を吹き飛ばすには、まったく足りないのです。

名誉のために添えると、原作者のアンディ・ウィアーさんは「物理的に正しくないのは分かっていたが、物語のために盛った」と公言しています。それ以外の科学描写が異常なほど正確な作品なので、未見の方はぜひ。

ペンダントひとつで、この星の重力が測れる

最後に、あなたが火星ですぐに試すことができる、いちばん物理らしいことをご紹介します。この星の重力を、自力で測るのです。

必要なのは、紐と重りだけ。ペンダントでもいいし、靴紐に石を結んでも構いません。それを揺らして、一往復の時間を数える。振り子が一往復する時間は、紐の長さと重力だけで決まります(式で書くと T=2π√(L/g)。雰囲気だけ眺めてもらえれば大丈夫です)。

地球と火星での振り子の周期比較の図解

長さ1mの振り子なら、一往復は地球で約2.0秒、火星では約3.3秒。ゆっくり揺れたら、そのぶん重力が弱い星だということになります。

時計がない?なら、自分の脈拍で数えればいい――というのは私の思いつきではなく、400年前のガリレオのやり方です。弟子の残した伝記によれば、若き日のガリレオは大聖堂のシャンデリアの揺れを自分の脈で測り、振り子の性質に気づいたと伝えられています。

実験装置がなくても、物理は持ち出せます。火星であろうと異世界であろうと、法則は付いてきてくれる。これが物理という学問の、ちょっと感動的なところです。

今日の火星データ

重力加速度:3.7m/s²(地球の約0.38倍)/ジャンプの高さ・投げた物の飛距離:約2.6倍/滞空時間・落下時間:約1.6倍/大気の密度:地球の約60分の1

さて、日が暮れる前に

NBA級のジャンプを手に入れ、振り子でこの星の重力まで自力で確かめたあなた。装備ゼロで放り出されたわりには、上々の初日です。物理は、荷物にならないくせに、ちゃんと働いてくれる。

と、そこで気づきます。朝から、何も飲んでいない。……喉が、渇いた。

幸い、この星には氷があります。ただし氷を溶かして火にかけても――この星では、お湯が作れません

ということで、次回、第2回〔熱力学編〕に続きます。

もしも火星に飛ばされたら(2)火星で水を沸かすと、冷たいまま沸騰する【熱力学編】

<文/岡崎 凌>
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